期限の利益放棄と相殺の実務
自働債権の期限の利益は放棄できません。
期限の利益放棄における自働債権と受働債権の違い
不動産取引や賃貸管理業務において、相殺による債権回収を検討する場面は少なくありません。しかし、相殺を実行するためには「相殺適状」という状態が必要で、その中でも期限の利益の扱いが重要なポイントとなります。
相殺を行う際、債権には2つの立場があります。相殺の意思表示をする側が持つ債権を「自働債権」、相殺される側が持つ債権を「受働債権」と呼びます。この2つの債権において、期限の利益の扱いが大きく異なる点を理解しておく必要があります。
受働債権については、債務者が期限の利益を放棄することができます。つまり、あなたが相殺をしようとする場合、自分が相手に対して負っている債務(受働債権)については、本来の弁済期より前であっても期限の利益を放棄して、すぐに支払える状態にすることが可能です。民法136条2項で、期限の利益は放棄できると明記されています。
一方で、自働債権については全く逆の扱いになります。相殺をしようとする側は、自分が持っている債権(自働債権)について期限の利益を放棄することができません。なぜなら、期限の利益は債務者のためのものであり、債権者が勝手に放棄することは相手方の利益を害するからです。
具体例で考えてみましょう。不動産会社A社がテナントB社に対して、前払いした賃料100万円の返還債権を持っているとします(自働債権)。同時に、A社はB社に対して、別の物件の原状回復費用80万円の債務を負っているとします(受働債権)。このとき、返還債権の弁済期が3ヶ月後であれば、A社は現時点で相殺を主張することができません。
自働債権の弁済期が到来していないためです。
これが基本です。
この違いを理解していないと、相殺できると思っていた債権が実は相殺できず、その間に相手方の資産状況が悪化したり、他の債権者による差押えを受けたりして、債権回収に失敗するリスクがあります。不動産業では取引金額が大きいため、この判断ミスによる損失は数百万円から数千万円規模に及ぶことも珍しくありません。
実務では、契約締結時から相殺の可能性を見据えて、自働債権となる可能性のある債権については弁済期を早めに設定する、または後述する期限の利益喪失条項を盛り込むなどの対策が重要になります。
期限の利益放棄と相殺適状の最高裁判例
相殺適状の判断において、実務に大きな影響を与えたのが平成25年2月28日の最高裁判決です。この判決は、受働債権について期限の利益を放棄できることと、実際に相殺適状が成立することは別の問題であると明確に示しました。
従来の実務では、受働債権について期限の利益を「放棄できる」という可能性があれば、相殺適状にあると考える見解もありました。
しかし、最高裁はこの考え方を否定しました。
判決では、「既に弁済期にある自働債権と弁済期の定めのある受働債権とが相殺適状にあるというためには、受働債権につき、期限の利益を放棄することができるというだけではなく、期限の利益の放棄又は喪失等により、その弁済期が現実に到来していることを要する」と判示しています。
つまり、「放棄できる」だけでは不十分で、実際に放棄または喪失によって弁済期が到来していなければ相殺適状とは認められないということです。
この判例が重要なのは、時効消滅した債権を自働債権とする相殺(民法508条)の適用範囲に関係するためです。民法508条では、時効消滅前に相殺適状があれば、時効消滅後でも相殺できるとされています。しかし、相殺適状の成立時期が厳格に判断されることで、この特例の適用を受けられるケースが限定されることになりました。
不動産業の実務では、過去の賃料債権や原状回復費用など、長期間経過した債権を相殺に使おうとする場面があります。そうした場合、相殺適状がいつ成立したのかを正確に把握しておかなければ、時効の問題と相まって相殺自体が無効となるリスクがあります。
契約書や取引記録において、いつ期限の利益が喪失したのか、またはいつ放棄の意思表示をしたのかを明確に記録しておくことが、後のトラブル防止につながります。証拠として、内容証明郵便や書面でのやり取りを残しておくことも有効な対策です。
名古屋総合法律事務所:時効消滅した過払い金と貸付金との相殺についてでは、この平成25年最高裁判例の詳細な解説と実務への影響が説明されています。相殺適状の判断において、受働債権の弁済期が現実に到来していることの重要性が解説されています。
期限の利益喪失条項を活用した相殺適状の創出
自働債権の弁済期が到来していないと相殺ができないという問題に対して、最も有効な対策が契約書における期限の利益喪失条項の設定です。この条項により、取引相手に一定の事由が発生した場合、当然に期限の利益が失われ、直ちに債務の履行を請求できる状態を作り出すことができます。
期限の利益喪失条項で定める典型的な事由には、次のようなものがあります。支払の遅延が1回でもあったとき、支払不能または支払停止の状態に陥ったとき、手形や小切手が不渡りになったとき、破産手続開始の申立てがあったとき、差押えや仮差押えを受けたとき、などです。
これらの事由を契約書に明記しておくことで、相手方の信用状態が悪化した時点で自働債権の弁済期を即座に到来させることができます。弁済期が到来すれば、受働債権について期限の利益を放棄することで、直ちに相殺適状を作り出すことが可能になります。
不動産業では特に以下のような場面で活用できます。管理委託契約において、委託者が賃料の支払を怠った場合に、前払いしている管理費用を相殺するケース。建築請負契約において、発注者の支払が滞った場合に、既に受領している前払金と残工事代金を相殺するケース。賃貸借契約において、賃借人が賃料を滞納した場合に、預かっている敷金返還債務と未払賃料を相殺するケースなどです。
ただし、期限の利益喪失条項には「当然喪失」と「請求喪失」の2種類があります。当然喪失は、条項で定めた事由が発生すれば自動的に期限の利益が失われるものです。一方、請求喪失は、事由発生後に債権者が請求することで初めて期限の利益が失われるものです。相殺の迅速性を重視するなら、当然喪失型の条項を設定するのが望ましいでしょう。
直法律事務所:相殺とは?相殺のメリットを活用した債権回収と、リスクについてでは、期限の利益喪失条項を含む相殺の実務的な活用方法が詳しく解説されています。債権回収の観点から、契約書作成時の注意点が具体的に説明されています。
期限の利益放棄と差押えの優劣関係
相殺と差押えが競合する場面は、不動産業の実務でしばしば発生します。たとえば、あなたが取引先に対して債権を持っており、同時に取引先もあなたに対して債権を持っている状況で、第三者があなたの債権を差し押さえた場合、相殺と差押えのどちらが優先するかという問題です。
民法511条では、差押えと相殺の優劣について明確なルールを定めています。基本原則は、差押え後に取得した債権による相殺は、差押債権者に対抗できないというものです。つまり、差押えがあった後に債権を取得した場合、その債権で相殺しようとしても、差押えをした債権者には主張できません。
反対に、差押え前に取得した債権による相殺は、差押債権者に対抗できます。ここでの「取得」とは、債権が発生したことを指します。契約の成立時期が重要な判断基準となるわけです。
さらに重要なのが、差押え後に取得した債権であっても、その発生原因が差押え前に存在していた場合です。民法511条2項では、差押え後に取得した債権でも、その原因が差押え前に生じていれば相殺で対抗できると規定しています。
たとえば、賃貸借契約が差押え前に締結されていて、差押え後に賃料債権が発生した場合、この賃料債権による相殺は差押えに対抗できます。将来賃料債権という概念で、契約によって発生原因が差押え前に存在していたと考えられるためです。
ただし注意点があります。差押え後に債権を他人から譲り受けた場合は、たとえその債権の発生原因が差押え前であっても、相殺で対抗することはできません。あくまで自分自身が差押え前に契約等によって取得する原因を持っていた債権である必要があります。
不動産取引では金額が大きく、複数の債権債務が並行して存在することも多いため、相殺による債権回収を検討する場合は、必ず契約の締結時期と債権の発生時期を記録しておくべきです。差押えがあってから慌てて確認しても、記録が不明確だと相殺の主張が認められないリスクがあります。
平成29年の民法改正により、この差押えと相殺の関係が明文化されましたが、改正前の最高裁判例(昭和45年6月24日判決)でも同様の判断がなされており、実務上の取扱いは基本的に変わっていません。
期限の利益放棄における相殺予約と遡及効の実務リスク
相殺予約とは、将来一定の事由が発生したときに自動的に相殺の効果が生じる旨を事前に合意しておく方法です。通常の相殺では意思表示が必要ですが、相殺予約を結んでおけば、条件成就と同時に当然に相殺の効果が発生します。
この相殺予約は、不動産業の継続的取引において有用な手法です。たとえば、管理会社と賃貸人の間で、賃貸人の賃料収入から管理費用を自動的に差し引く仕組みを作る際に活用できます。また、建設会社と発注者の間で、追加工事代金と変更によって不要になった前払金を自動的に相殺する合意も考えられます。
相殺予約の効力については、従来の判例法理において、期限の利益の喪失または放棄という弁済期に関する合意の部分が重視されてきました。つまり、相殺予約があっても、結局は相殺適状が成立していなければ相殺はできないという考え方です。
実務上重要なのは、相殺予約においても差押えとの関係が問題になる点です。差押え前に相殺予約を締結していても、差押え時点で相殺適状が成立していなければ、差押え後に相殺適状になったタイミングで相殺の効果が生じることになり、差押債権者との優劣関係が複雑になります。
また、相殺には遡及効があります。民法506条2項では、相殺の意思表示は、双方の債務が互いに相殺に適するようになった時に遡って効力を生じると規定されています。つまり、相殺の効果は相殺適状が成立した時点まで遡るのです。
遡及効があることで、相殺適状の時点から相殺の意思表示をするまでの間に発生した利息や遅延損害金の計算が複雑になります。不動産取引では金額が大きいため、利息計算の違いが数十万円の差を生むこともあります。
実務では、相殺による遡及効の影響を明確にするため、契約書において「相殺の効力は意思表示の時点で発生し、遡及効は適用しない」といった特約を設けることも検討されます。ただし、このような特約が常に有効とは限らないため、個別の契約内容に応じて専門家に相談することが望ましいでしょう。
相殺予約は便利な手法ですが、差押えや時効との関係で予想外の結果を招くリスクもあります。したがって、継続的な取引関係において相殺予約を活用する場合は、定期的に債権債務の状況を確認し、相殺適状が実際に成立しているかを検証しておくことが重要です。記録の保管期間も、一般的な取引書類よりも長く設定し、少なくとも10年間は保管しておくべきでしょう。
全国銀行協会:相殺をめぐる裁判例と債権法改正(PDF)では、相殺予約の法的位置づけと実務上の課題が詳細に解説されています。差押えとの優劣関係や遡及効の取扱いについて、裁判例を踏まえた分析が提供されています。

ハッシュ・マネー(字幕版)
