身分証の提示と法律:不動産取引で問われる義務と実務の注意点
賃貸仲介でも身分証を預かれば義務を果たしたことになると思ったら、300万円の罰金リスクがあります。
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身分証の提示が義務になる法律の根拠:犯罪収益移転防止法とは
不動産の現場で身分証の提示を顧客に求める場面は日常的ですが、その法的根拠を正確に押さえている担当者は意外と少ないものです。単なる慣習ではなく、「犯罪による収益の移転防止に関する法律」(犯罪収益移転防止法、以下「犯収法」)という明確な法律に基づいた義務です。
犯収法は2008年3月1日に全面施行されました。マネー・ローンダリング(資金洗浄)やテロ資金供与を防ぐ国際的な取り組みの一環として制定された法律で、背景にはFATF(金融活動作業部会)の勧告があります。FATFとは、G7サミットをきっかけに1989年に設立された政府間機関で、34か国・地域が加盟する国際的な規制の枠組みです。
宅地建物取引業者(宅建業者)は、この法律において「特定事業者」のひとつに位置づけられています(法2条2項36号)。特定事業者は法律で定められた義務を果たさなければならず、それが守られない場合には行政庁からの是正命令、さらには2年以下の懲役もしくは300万円以下の罰金(またはその併科)という刑事罰につながります。
義務が課されることになる。それだけ覚えておけばOKです。
なぜ不動産取引が特にマネー・ローンダリングの温床になりやすいかというと、取引金額が数千万円から数億円規模になることが多く、匿名性を利用した資金隠匿に悪用されやすいためです。国際的な規制当局も不動産業界を「高リスク業種」として分類しており、厳格な対応が求められています。
参考になるのが国土交通省が公開している「不動産業における犯罪収益移転防止法等に関する連絡協議会」の資料です。宅建業者向けの実践的なガイドラインが用意されています。
不動産流通推進センター|不動産業における犯罪収益移転防止等に関する連絡協議会(ハンドブック・様式等)
身分証の提示義務が生じる「特定取引」と対象外の取引の違い
実は、犯収法の本人確認義務が発生するのは、宅建業者が行うすべての取引ではありません。これが実務上の大きな落とし穴のひとつです。
法律の対象となるのは、「宅地または建物の売買契約の締結、もしくはその代理・媒介」に限定されています(法4条1項、令8条1項4号)。つまり、不動産の売買にかかわるときだけが義務の対象です。
一方、以下の取引は犯収法の適用対象外となります。
- 🏠 宅地建物の賃貸借およびその代理・媒介
- 🔄 宅地建物の交換およびその代理・媒介
賃貸仲介業務がメインの事務所では「うちには関係ない」と考えてしまいがちです。しかし、同じ事務所が売買仲介を1件でも手がければ義務が生じます。賃貸仲介と売買仲介を兼営している場合は、取引ごとの切り分けを明確にすることが重要です。
賃貸は対象外、が原則です。
ただし、賃貸でも自社の業務管理として独自に本人確認を行うことを妨げるものではありません。実際に多くの管理会社や仲介会社が、契約トラブル防止の目的で入居審査時に身分証の提示を求めています。この場合はあくまで任意の業務上の確認であり、犯収法に基づく義務とは性質が異なります。
| 取引の種類 | 犯収法の本人確認義務 |
|---|---|
| 宅地・建物の売買(自社が当事者) | ✅ 義務あり |
| 売買の代理・媒介 | ✅ 義務あり |
| 宅地・建物の賃貸借 | ❌ 義務なし(任意対応) |
| 賃貸の代理・媒介 | ❌ 義務なし(任意対応) |
| 宅地・建物の交換 | ❌ 義務なし |
この区別は宅建業者のコンプライアンス体制を整える上で基本中の基本です。売買を手がける担当者には、特にこの理解を徹底しておく必要があります。
国土交通省|犯罪収益移転防止法の概要(宅地建物取引業者向け詳細解説)
身分証の提示方法は4種類:「提示のみ法」だけでは対応できない書類がある
身分証を見せてもらえばそれで確認完了、と思っている方は多いかもしれません。しかし犯収法では、確認方法が4種類に分類されており、書類の種類によって使える方法が異なります。この組み合わせを間違えると、法的に有効な本人確認ができていないことになります。
4種類の確認方法をまとめると次のとおりです。
| 確認方法 | 対面/非対面 | 主に使える書類 |
|---|---|---|
| 📋 提示のみ法 | 対面 | 運転免許証、マイナンバーカード、パスポート(住所記載あり)、契約印に係る印鑑登録証明書 など |
| 📋➕📮 提示+送付法 | 対面 | 住民票の写し、戸籍謄本・抄本、契約印以外の印鑑登録証明書 など |
| 📮➕📮 受理+送付法 | 非対面 | 上記書類またはその写し |
| 💻 電子証明法 | 非対面 | マイナンバーカードの電子証明書など |
「提示のみ法」が使えるのは、顔写真付きの公的書類や、契約書に押印された印鑑の印鑑登録証明書などに限られます。たとえば住民票の写しは提示のみ法では使えず、「提示+送付法」によって書留郵便等(転送不要郵便)を顧客の住所へ送付しなければなりません。これを怠ると法的な本人確認を行ったことになりません。
方法の選択が条件です。
また、注意点として、顔写真付き書類であれば代理人が提示しても本人確認として認められますが、顔写真のない書類を代理人が提示した場合は「提示のみ法」が使えません。代理人が絡む取引では、書類の種類と確認方法の組み合わせを慎重に確認する必要があります。
2024年12月2日からは健康保険証の新規発行が停止され、本人確認書類としての使用も2025年12月1日をもって終了しました。現在は健康保険証に代わる「資格確認書」が犯収法上の確認書類として追加されています。この変更点を把握していないと、有効期限切れの保険証で確認してしまうリスクがあります。
書類の変更点を一度確認しておくことをおすすめします。自社の本人確認手続きに保険証が含まれている場合、書類リストの更新が急務です。
全日本不動産協会|国交省:マイナ法改正等に伴う犯収法施行規則等の改正について(2024年11月)
身分証の提示で見落としがちな記録保存義務:宅建業法の5年と犯収法の7年
身分証の提示を受けてその場で確認するだけでは不十分です。確認後の「記録」と「保存」も義務の一部です。しかもここに、実務上の重大な落とし穴が潜んでいます。
宅建業法(第49条)では、帳簿を5年間保存する義務が定められています。一方、犯収法に基づく「確認記録」および「取引記録」の保存期間は7年間です(犯収法6条2項、7条3項)。2年の差があります。
5年で捨てると違反になります。
実務では帳簿と確認記録を同じファイルに綴じて保存しているケースもあります。その場合、帳簿の保存期限(5年)に合わせて全部まとめて廃棄してしまうと、犯収法上の保存義務違反になります。書類の種類ごとに保存期限を管理する仕組みが必要です。
確認記録に記載しなければならない事項は細かく法定されています。主なものを挙げると次のとおりです。
- 本人確認を行った担当者の氏名
- 確認した取引の種類と確認方法
- 顧客の本人特定事項(氏名・住所・生年月日)
- 提示を受けた書類の名称・記号番号・提示日時
- 代理人が関与する場合は、代理人の本人特定事項と顧客との関係
様式は法令上で指定がないため、各宅建業者が独自に作成することになっています。不動産業6団体が構成する「マネロン・反社連絡協議会」が参考様式を公開しており、これをひな形として活用するのが実務的に最も効率的です。
取引記録には、売買代金の金額や財産の移転先・移転元の名義なども記載が必要です。これらは宅建業法上の帳簿記載事項とある程度重複しますが、保存期間の違いを念頭に置いた運用が求められます。
不動産流通推進センター|確認記録の参考様式・犯罪収益移転防止のためのハンドブック
身分証の提示だけでは不十分な「ハイリスク取引」と複数業者が絡む場合の確認義務
通常の本人確認で十分と思っていると、追加確認が必要な場面を見逃してしまうことがあります。犯収法では、マネー・ローンダリングの危険性が特に高い取引を「ハイリスク取引」と定め、通常よりも厳格な確認を義務づけています。
ハイリスク取引に該当するケースは次のとおりです。
- 🚨 なりすましの疑いがある取引
- 🚨 本人特定事項などを偽っていた疑いがある顧客との取引
- 🌍 マネー・ローンダリング対策が不十分な国(イラン・北朝鮮など)に居住・所在する顧客との取引
- 👤 外国PEPs(大臣・国会議員・軍の幹部など重要な公的地位にある者)との取引
これらに該当する場合は、通常の氏名・住所・生年月日の確認に加えて、顧客の資産や収入の状況まで確認する必要があります。厳しいところですね。
また、売買取引に複数の宅建業者が関与するケースもあります。典型的なのは、売主側と買主側にそれぞれ仲介業者が付いている「片手仲介」の場面です。この場合、原則としてすべての宅建業者が売主・買主双方の本人確認を行う義務を負います。「相手側の業者がやってくれているはず」という思い込みは危険です。
例外があります。複数の宅建業者全員が確認記録を検索できる状態が確保されているときは、一者の確認で足りるとされています。ただし、この例外適用には厳格な要件があります。実務上は、各社が独立して確認を行うほうが安全です。
さらに見落とされやすいのが、金融機関が先に本人確認を行っていても、宅建業者として改めて確認する義務は省略できないという点です。金融機関・司法書士・宅建業者はそれぞれ異なる法律・立場で確認を行うため、「ほかの誰かがやった」では済みません。確認が必要です。
「疑わしい取引」に気づいたときは、速やかに免許行政庁(国土交通大臣または都道府県知事)へ届け出る義務も生じます。国土交通省が「不動産の売買における疑わしい取引の参考事例」を公開しているので、定期的に確認しておくことを強く推奨します。
不動産流通推進センター|犯罪収益移転防止のためのハンドブック 第2分冊「疑わしき取引の届出編」(最新版)
身分証の提示を電子化するeKYCと今後の法改正:不動産業界に迫る変化
これまで対面での書類確認が当たり前だった不動産業界でも、本人確認のデジタル化が進んでいます。これは利便性の話だけでなく、法律の改正とも密接に関わります。
2018年の犯収法改正で、オンライン上で本人確認を完結させる手続き(eKYC:electronic Know Your Customer)が正式に認められました。スマートフォンで免許証を撮影し、本人の顔と照合する方式などが代表例で、非対面の売買仲介やオンライン内覧後の契約手続きなどに活用できます。これは使えそうです。
さらに2025年6月施行・2027年4月施行を見据えた犯収法施行規則の改正では、本人確認方法の厳格化と電子手続きの拡充が予定されています。マイナンバーカードの電子証明書を活用したオンライン本人確認の整備も進んでおり、デジタル庁が主導する「マイナンバーカードの安全・便利なオンライン取引」構想と連動しています。
変化は現実に始まっています。
実務での対応として、今後は次の3点が鍵になります。
- ✅ 自社の確認フローに現行の法改正対応を反映しているか定期チェックする
- ✅ 健康保険証から資格確認書・マイナンバーカードへの切り替えを確認書類リストに反映する
- ✅ eKYCサービスの導入を検討する際は、犯収法の「電子証明法」要件を満たしているか確認する
特に、遠方の顧客や多忙な法人顧客との取引では、非対面の本人確認に移行することで業務効率が大きく改善します。ただしeKYCサービスを選ぶ際は、犯収法の規定する確認方法に準拠しているかどうかを必ずサービス提供者に確認してください。すべてのeKYCツールが犯収法対応とは限らない点に注意が必要です。
2027年4月の施行に向けて業界全体の対応スケジュールは動いています。早めに社内のフロー整備を検討しておくことが、法的リスクと業務の混乱を防ぐ最善策です。