履行の着手 具体例と判断基準
司法書士へ登記書類を預けても履行の着手にならない場合があります。
履行の着手の定義と法的根拠
不動産売買において履行の着手がいつ発生するかは、契約解除の可否を左右する極めて重要な判断基準です。最高裁判所の判例では、履行の着手とは「客観的に外部から認識し得るような形で履行行為の一部をなし、または履行の提供をするために欠くことのできない前提行為をした場合」と定義されています。
この定義は抽象的に感じられるかもしれません。
しかし、実務では明確な区別が求められます。
単なる準備行為と履行の着手の境界線を正確に理解しておくことが、トラブル回避の第一歩になります。
履行の着手が認められると、手付解除ができなくなります。民法557条1項では、相手方が契約の履行に着手した後は、手付による解除ができないと規定されています。つまり、買主が手付を放棄したり、売主が手付の倍額を償還したりしても、相手方が既に履行に着手していれば契約解除はできません。
判例が示すポイントは「外部から認識できること」です。内心の意思や準備段階の行為だけでは不十分であり、第三者が見ても明らかな具体的行動が必要とされます。この客観性の要求が、実務における判断の難しさを生んでいるといえるでしょう。
履行期との関係も重要な考慮要素です。履行期前であっても履行の着手は認められますが、その場合は「当該行為の態様、債務の内容、履行期が定められた趣旨・目的等諸般の事情」を総合的に勘案して判断されます。
住宅金融普及協会による履行の着手の詳細解説では、手付解除の制限について基本的な考え方が整理されています。
履行の着手の具体例 売主側の行為
売主側における履行の着手として認められる行為には、明確な実例が判例で示されています。最も典型的なのは、所有権移転登記に必要な書類を準備し提供することです。ただし、単に司法書士に書類を預けただけでは履行の着手と認められない場合があります。
東京高等裁判所令和3年10月27日判決では、売主が決済日前日に司法書士へ登記書類を預け入れた事案において、これを単なる準備行為とみなし、履行の着手には該当しないと判断しました。書類を預けるという行為自体は外部から認識できますが、履行の提供をするために「欠くことのできない前提行為」には当たらないとされたのです。
一方で、抵当権抹消のための借入金の全額返済は、履行の着手に該当します。売主が金融機関に対して実際に返済を完了させることで、買主への所有権移転が可能になる状態を作り出すからです。この行為は決済日前であっても、外部から明確に認識できる履行行為の一部といえます。
所有権移転登記の申請も該当します。他人物売買において、売主名義に所有権移転登記を経由したことが履行の着手と認められた最高裁判例があります。特定の売買物件を調達する具体的行動として評価されました。
賃貸物件の売買における賃借人の明け渡し完了も重要な例です。借家人が存在する物件の売買契約において、売主が実際に賃借人を退去させ、物件を買主に引き渡せる状態にすることは、履行の着手として認められます。
履行期の20日前に売主が転居先のリフォーム工事に着手した事例も、履行の着手と判断されました。売主の立退きが前提となる売買契約において、転居準備という具体的行動が契約履行に向けた明確な意思の表れとして評価されたのです。
測量や分筆作業については注意が必要です。東京地方裁判所平成25年4月19日判決では、売主が実施した測量・分筆作業について、これらは売買土地を確定するために必要なものであり、債務の履行行為の一部とも、履行の提供をするために欠くことのできない前提行為ともいえないとして、履行の着手を否定しました。
つまり、測量や分筆は準備段階です。外部から認識できる行為ではありますが、買主への所有権移転という債務の履行に直接結びつく行為ではないと判断されたわけです。
履行の着手の具体例 買主側の行為
買主側の履行の着手として最も明確なのは、内金または中間金の支払いです。手付金とは性質が異なり、内金・中間金は売買代金の一部前払いとしての性格を持ちます。買主がこれらを支払った時点で、契約の履行に着手したと認められ、以降は売主による手付解除ができなくなります。
手付金との違いは重要なポイントです。手付金は契約成立の証拠や解除権の留保という性質を持ちますが、内金・中間金は代金の一部として支払われます。したがって、支払われた時点で売買代金の一部が充当され、買主の債務履行の一部が完了したことになるのです。
残代金の準備と履行の催促も履行の着手に該当します。ただし、単に資金を準備しただけでは不十分で、売主に対して実際に履行を催促し、支払う意思と準備ができていることを外部から認識できる形で示す必要があります。最高裁判例では、買主が残代金を用意して再三にわたり契約の履行を売主に催告した事案で、履行の着手を認めています。
履行期到来後の残代金の口頭での提供も認められます。実際の金銭の交付まで至らなくても、買主が決済場所に赴き、現実に支払える状態で提供の意思表示をすることは、履行の着手として評価されます。
引越し業者との契約締結など、引渡しを受けるための具体的準備も該当する場合があります。物件への転居を前提とした明確な行動は、買主が契約を履行する意思を外部に示す行為といえるでしょう。
一方で、住宅ローンの申込みや審査の承認は履行の着手に該当しません。東京地方裁判所平成29年2月27日判決では、買主が住宅ローンの申込み・承認を得たこと、投資信託の解約、親族からの資金調達などを行った事案について、これらは必要な準備行為ではあるが、資金の調達という準備段階にとどまり、不可欠な前提行為とまでは言い難いとして、履行の着手を否定しました。
ローン審査が通っても、まだ準備です。実際に金銭を売主に提供する段階に至って初めて履行の着手と認められます。融資承認を得ても、それだけでは外部から見て買主が代金を支払う義務を履行し始めたとはいえないのです。
オプション工事やインテリアの申込み、駐車場の申込み、家具の購入なども、転居と関連する行為ではあるものの、売買代金の支払いとは直接関係しないため、履行の着手には該当しないとされています。
不動産流通推進センターの裁判例集には、買主・売主それぞれの履行の着手に関する詳細な判例分析が掲載されており、実務の参考になります。
履行の着手の判断基準と裁判例から学ぶポイント
履行の着手の判断において、裁判所が重視するのは「客観性」「具体性」「契約との関連性」の3つです。客観性とは、第三者が見ても履行行為の開始が明らかであることを意味します。具体性は、単なる意思や準備ではなく、実際の行動が伴っていることです。契約との関連性は、その行為が契約上の債務の履行に直接結びついているかどうかを指します。
履行期との関係も判断の重要な要素です。最高裁平成5年3月16日判決では、履行期を1年10か月後とする売買契約において、買主が契約の1か月後に行った測量、8か月後に行った残代金の提供について、履行期が定められた趣旨・目的との関連において、履行の着手に当たらないと判断しました。
この判例から分かるのは、履行期まで相当の期間がある段階で行った行為は、履行の着手と認められにくいということです。履行期の設定には当事者間の合意に基づく意味があり、その趣旨を無視して早期に履行に着手したと主張することは、相手方の手付解除権を不当に奪うことになりかねません。
手付解除の利益を実質的に奪う目的で行われた行為も否定されます。名古屋高等裁判所平成13年3月29日判決では、手付解除可能期間を契約後17日間とした売買契約において、売主が契約日のわずか2日後に農地法に基づく届出を行った事案について、買主の手付解除の利益を実質的に奪うものであるとして、履行の着手を否定しました。
この判断は実務上非常に重要です。契約書で手付解除期間を明示しているにもかかわらず、その期間内に形式的な履行行為を行って相手方の解除権を封じようとする行為は、認められないということです。
準備行為と履行行為の区別は、個別具体的に判断されます。同じ「書類の準備」であっても、単に書類を揃えただけなのか、実際に登記申請まで行ったのかで結論が変わります。「金銭の準備」も、口座に資金があるだけなのか、現実に提供したのかで異なる評価になるのです。
建売住宅の売買では、売主が買主名義の建物表題登記を行った事例が履行の着手と認められています。東京高等裁判所平成25年8月7日判決では、履行期16日前に売主が買主を所有者とする表題登記を行ったことが履行の着手に当たるとされました。登記という公的記録に残る具体的行為であり、かつ履行期に近い時期の行為であったことが評価されました。
農地法の許可申請も、売主・買主が連署して行えば両者の履行の着手と認められます。農地売買では許可が契約履行の前提条件となるため、その申請は履行に欠かせない前提行為として評価されるのです。
転売目的で物件を購入した買主業者が、測量・整地等を行い、転売先と売買契約を締結した事案では、これらの行為は本件売買契約において買主の負っていた債務の履行行為自体ではないとして、履行の着手が否定されました。買主の債務は売主に代金を支払うことであり、転売先との契約締結は売主との関係では無関係な行為だからです。
つまり、自分の都合で行った行為は該当しません。契約相手との関係で、相手方に対する債務の履行に直接結びつく行為でなければ、履行の着手とは認められないのです。
履行の着手と手付解除の関係性
手付解除は、相手方が履行に着手するまでの間に限って行使できる権利です。買主は手付を放棄することで、売主は手付の倍額を現実に提供することで、契約を解除できます。しかし、相手方が履行に着手した後は、この解除権が消滅します。
なぜ履行の着手で解除権が制限されるのか。最高裁判所の判例によれば、履行に着手した当事者は履行のために費用を支出し、契約の履行に多くの期待を寄せているため、この段階で相手方から契約を解除されると不測の損害を被ることになるからです。履行に着手した者を保護するため、民法557条1項の規定が設けられているのです。
重要なポイントは「相手方」の履行の着手です。自分自身が履行に着手していても、相手方が履行に着手するまでは手付解除が可能です。売主が既に登記書類を準備していても、買主が内金を支払っていなければ、売主は手付倍額償還による解除ができます。
手付解除の期限を契約書で定めることも実務上よく行われます。たとえば「契約締結日から2週間以内」といった期限を設定すれば、その期間内は履行の着手の有無にかかわらず手付解除が可能という特約も有効です。ただし、期限を設定していても、相手方が履行に着手していれば解除できないとする規定が一般的です。
宅地建物取引業者が売主の場合、手付金額は売買代金の20%を超えてはならないという制限があります。これは宅地建物取引業法で定められた規制であり、買主保護の観点から設けられています。業者が過大な手付を受領することで、買主が手付解除しにくくなる状況を防ぐためです。
手付解除と債務不履行解除は異なります。手付解除は契約当事者の一方的意思表示により成立し、損害賠償の問題は生じません。一方、債務不履行解除は相手方に契約違反がある場合の解除であり、損害賠償請求が可能です。履行の着手により手付解除ができなくなっても、相手方に債務不履行があれば解除はできます。
ローン特約による解除も手付解除とは別物です。買主が住宅ローンを利用する場合、融資が承認されなければ契約を白紙解除できるという特約が一般的に設けられます。この解除は履行の着手とは無関係に成立し、手付金も返還されます。
実務では、決済日が履行の着手のタイミングとなることが多いです。決済の場で売主が登記書類を提供し、買主が残代金を支払うことで、双方が履行に着手します。したがって、決済前であれば手付解除の可能性が残っているといえます。
ただし、決済前でも内金・中間金の支払いがあれば、その時点で買主は履行に着手しています。
売主による手付解除は不可能です。
また、売主が抵当権を抹消するために借入金を完済していれば、売主側の履行の着手として評価される可能性があります。
全日本不動産協会の法律相談事例では、実務で問題となる履行の着手の判断について具体的な回答が示されています。
履行の着手に関する実務上の注意点とリスク管理
不動産業者として履行の着手を正確に理解しておくことは、契約トラブルの予防に直結します。まず重要なのは、契約書に手付解除期限を明記することです。期限を設定することで、当事者双方が解除可能な期間を明確に認識でき、不測のトラブルを防げます。
手付解除期限を設定する際は、履行期との関係を考慮しましょう。あまりに長い解除期限は売主・買主双方に不安定な状態を強いることになりますし、極端に短い期限は買主の検討期間を不当に制限することになります。一般的には、契約締結から1週間から2週間程度が妥当とされています。
顧客から「いつまで手付解除できるか」と質問された場合、履行の着手の概念を正確に説明することが求められます。単に「相手方が履行に着手するまで」と答えるだけでは不十分です。具体的にどのような行為が履行の着手に該当するのか、判例に基づいて説明する必要があります。
売主側の代理人として注意すべきは、買主が内金・中間金を支払う前に売主が履行に着手してしまうリスクです。売主が先に履行に着手すると、買主による手付解除が可能な状態が継続します。双方が同時に履行に着手するよう、決済のスケジュールを調整することが望ましいでしょう。
買主側の代理人としては、買主が手付解除を検討している場合、相手方の履行の着手の有無を慎重に確認する必要があります。売主に対して「履行に着手しているか」と直接聞くだけでなく、登記簿謄本で抵当権の抹消状況を確認するなど、客観的な証拠を収集することが重要です。
履行の着手の有無について争いになる典型的なケースは、司法書士への書類預け入れです。売主側は「書類を預けたから履行に着手した」と主張し、買主側は「単なる準備行為だ」と反論する構図がよくあります。前述の東京高裁判例のように、書類の預け入れだけでは履行の着手と認められない場合が多いことを理解しておきましょう。
測量や分筆についても同様です。売主が費用をかけて測量や分筆を行ったとしても、それだけでは履行の着手にならない可能性が高いです。測量や分筆は売買の前提として必要な準備作業であり、買主への所有権移転という債務の履行に直接結びつく行為ではないからです。
ローン審査の承認についても誤解が多い部分です。買主が住宅ローンの本審査に通ったことを理由に「履行に着手した」と売主が主張するケースがありますが、判例ではローン審査の承認は準備行為に過ぎず、履行の着手には該当しないとされています。実際に金銭を提供する段階で初めて履行の着手となります。
契約書の特約で「司法書士への登記書類の預け入れをもって履行の着手とする」といった規定を設けることも可能です。このような特約があれば、判例の基準とは異なる合意が成立し、書類の預け入れ時点で履行の着手と認められる可能性があります。ただし、このような特約が買主に不利に働く場合、消費者契約法などによる規制の対象となる可能性もあるため、慎重な検討が必要です。
トラブルが発生した場合の対応としては、まず弁護士に相談することが重要です。履行の着手の判断は高度に専門的であり、個別の事情によって結論が変わります。自己判断で対応すると、後に不利な立場に立たされる可能性があります。
証拠の保全も忘れてはいけません。履行の着手の有無が争点となる場合、いつ、誰が、何をしたのかを客観的に証明できる資料が必要です。司法書士への書類の預け入れであれば、預けた日時と内容を記録した書面、金銭の支払いであれば振込記録や領収書など、証拠を確実に残しておきましょう。
不動産取引推進機構の相談事例では、実務で頻繁に問題となる履行の着手の判断について、具体的な回答が示されています。
顧客への説明では、履行の着手という専門用語を使うだけでなく、具体例を交えて分かりやすく伝えることが大切です。「内金を支払うと手付解除できなくなります」「抵当権を抹消すると手付解除できなくなる可能性があります」といった具体的な表現を用いることで、顧客の理解を促進できます。
不動産取引は高額であり、手付解除の可否は当事者にとって重大な関心事です。履行の着手という概念を正確に理解し、適切に説明できる能力は、不動産業者として必須のスキルといえるでしょう。判例の動向を常に把握し、最新の知識をアップデートし続けることが、プロフェッショナルとしての責務です。

